第1回・第2回に書いたとおり、既にこの映画を観たことがある人向けですので、ネタバレもあります。また、わかりやすさを重視し、厳密さに目をつぶった点もあります。誤りや不十分な記述もあるかもしれません。問題点に気づいた方は、ぜひご指摘ください。
第1回と第2回のエントリだけでは、とりあげることができた点はごく限られており、まだまだふれておくべき点はたくさんあるでしょう。例えば、作品中に登場する台湾芸能史上の著名人たち(豬哥亮や歌仔戯の楊麗花など)。あるいは、日本アニメの存在感(ガッチャマンやキャンディ・キャンディ。ちなみに小h(チー)の結婚相手はアントニー(安東尼)という名前ですが、これはやはりキャンディ・キャンディに由来するもののようです)。さらには、戒厳令解除後の民主化運動の展開(高校生の小hが目撃したのは、1991年5月の「獨立台灣會案」関連の動き)。作品中に少しだけでも登場する、実際に起きた出来事は、他にも多数あります(1999年の921大地震、陳水扁の再選や不支持の声の高まり、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件、ひまわり学生運動など)。
ただ、もう明日(今日)4月13日には、東京アニメアワード以来の日本での上映機会となる、台湾文化センターでの『オン ハピネス ロード』の上映会が開催されるので、その前にひと区切りをつけようと思います。というわけで、この第3回では、解説めいた内容は控えめに、この映画が描いているものについて改めて考えてみます。
【「正解」/「不正解」、「幸福」/「不幸」】
第2回の後半では、小hと陳幸、の選択をさりげなく対比させるように描くことで、「医者にならない」という選択をすることが人生の「正解」であるといった結論になってしまうことを回避しているという指摘をしました。
この例に表れているように、『オン ハピネス ロード』の大きな、そしてとても重要な特徴は、人生には「正解」「不正解」があるという単純な結論に落ち着かないようにしている点にあると思います。そしてまた、だからといって「結局人生は人それぞれ」というような別の形の均質化や単純化に向かうのではなく、むしろそこに人生の奥行きを見出し、個々の多様な人生のあり方それぞれを慈しむ姿勢がみられるところです。言い換えれば、「幸福」に定型的な形があるわけではないこと、さまざまな「幸福」のあり方はそれぞれ固有の価値があるということが、この映画には穏やかに(でも確かに)描かれています。
ただ、こうした姿勢は、一見「正解」や「幸福」に見える状況もまた、永続的なものではないということを躊躇なく描くことにもなります。小hの小学校でのクラスメートの少年・聖恩は、小学校を去ることになりますが、父親とともに教師に向かって小学校を去ることを告げる場面は、学校的な価値観に従って生きることへの反発を示すものです。そのような聖恩は、屋根の上から将来たくさんのお金を稼ぐのだと叫んでいましたが、実際にその後の彼は、バイク修理業で成功をおさめ、小hと偶然に再会したときには、高級マンションを買うほどになっていました。こうしたサクセスストーリーは、経済的成長の時代の台湾ではいくつもみられたのかもしれませんが、(小hが結果的に実現したような)学歴上の成功という学校的な価値観に反発した聖恩が、最終的に学歴のトップといえる「博士」の家を得る(聖恩が住む高級マンションの名前は「博士的家」でした)という展開は、大変印象的です。でも、だからといって「学歴の追求なんて意味はない」という単純な結論に落ち着くのかというとそうではなく、むしろその「博士的家」が921大地震(1999年に台湾で起こった大きな地震)で倒壊してしまうというのは、この映画が「正解」の提示で落ち着いてしまうことを、シビアに、かつ断固として避けるものであることを示しています。
【「幸福路上」】
屋根の上で夢を語った3人は、結局誰もそれを実現できなかった、という内容の言葉が作品中で語られます。確かに、誰も完璧な幸福を手にすることはできなかったかもしれません。でも、3人は「不幸」だったのでしょうか?
この作品は、できあがったものや、万人に共通のゴールなどとして、「幸福」を描こうとは一切していません。この点は本当に貫徹されていたと思います。逆に言うと、不完全かもしれないし、永続的でないかもしれないけれど、だからといってそれが「幸福」の名前に値しないわけではないということが、確かに描かれていたように思います。
この映画のタイトルは、「幸福路上 On Happiness Road」でした。このタイトルは、文字通りの地名としての「幸福路」にいるということだけでなく、「誰もが幸福へ道のりの途上にいる」、あるいは「誰もが幸福という道の上を既に歩んでいる」という含意をうかがわせます。実際、TAIWAN TODAYの記事(元は中央社の記事)によると、宋欣穎監督はかつてこう語ったことがあるそうです。「私たちは誰もが幸福路(ハピネスロード)を歩いているのだ。しかし、多くの人々が、幸福というのは実は自分のすぐそばにいるということに気が付いていないのだ(其實我們每個人都在幸福路上,可是也許沒有走過這一遭,就不會明白原來幸福就在你身邊)」。
直接的には、この映画は台湾に根差した、台湾に生きる人たちの経験を描いたものです。上の宋欣穎監督の言葉も、一般的なことというよりも台湾の人たちを想定して語られたものです。でも、この映画が語るものは、台湾という文脈を越えて、明確な「幸福」像が見えにくい、既存の「幸福」像が幸福に思えない、完璧な「幸福」にたどりつくことができないと痛感している人々にとって響くものになっているように思います。きわめてローカルで台湾的でありながら、普遍的な意味をもつ作品として成立していることの見事さは繰り返し強調したい点です。
でも、本当にこの作品がすごいところは、「幸福」を描いていることそのものにあると思います。「正解」として幸福を描かないこと、つまり幸福かもしれないものの不完全さや不透明さ、限定性などを曖昧にせず見失わないこと、同時に多様なあり方をもちうるものとして幸福をとらえること、それをすべて達成しながら、ネガティブでなく、「自分のすぐそばにあるもの」として幸福を描いていることが、観客に響くのではないでしょうか。
映画の最後の小hは、決して完璧な状況にあるとはいえないでしょう。喪失の経験やこれまで負ってきた傷、将来の展望の不透明さなど、もしかしたら「不幸」にさえ見えるかもしれません。それでも、映画を観てきた人たちは、この小h(たち)の姿に、とても確かな「幸福」を見出すことができるのではないでしょうか。この奥行きのある「幸福」の豊かな描出を、ぜひ多くの人に味わってほしいと思います。